昨年鹿児島県知覧の 武家屋敷を見に行きました。私の住んでいる大分県の杵築や臼杵にも武家屋敷がありますがかなり趣が違っています。知覧の武家屋敷は生垣に特色があります。今まで生垣というとまっすぐに刈り込まれているものしか見たことがありませんでしたが、知覧の生垣は見事な曲線を描いており、大変美しく趣きがありました。撮った写真をインストールするのを忘れていたので資料から写真と説明文を少し紹介します。
『知覧は南北朝時代以降、薩摩島津家の支配下の佐多氏の領地であったが、文禄4年(1595)から種子島氏の所領になり、佐多氏が旧領知覧に復帰したのは、慶長15年(1610)佐多忠充のときである。しかしそれは、知覧の一部を給地高として与えれてたにすぎなかった。佐多氏が知覧の領主になったのは延宝5年(1677)のことであった。久達は薩摩島津藩主 島津光久・綱貴・吉貴の3代の藩主に仕え、その功績により、正徳元年(1711)島津姓を称することが許された。知覧の麓は第18代島津久峯(藩主継豊の三男)が、延享2年(1745)養父久豪の後を継ぎ、御仮屋(知覧領主の居宅)を中心に形成し、防備を兼ねた城塁型の武家屋敷の区画と、道路割りをしたものである。薩摩島津藩では鹿児島の鶴丸城しか持てなかったので、領内に113ヶ所の外城を持った。外城は城ではなく、人をもって城とする軍事上の拠点であった。その外城の防備を郷士にあたらせ、その郷士の居住するところを麓と云った。郷士は平常は農業を営み、非常時に備えて武技を磨くと云う生活であった。知覧麓武家屋敷群は第18代島津久峯の1760年ごろに形成されたもので、石垣の上には大刈り込みの生垣が続き、麓全体が母ヶ岳を借景とし、江戸時代そのままの姿を今に残している。通りは、各所で折れ曲がったり、T字型になっていて戦術的な仕掛けがなされている。街路両側には側溝がなく、直立した石垣で整えられ、その上に美しく剪定された生垣が武家屋敷を囲っていて、知覧麓の町並みはこの石垣と生垣とに特色がある。枯山水を中心とした庭園は、現在七庭園が公開されていて、それぞれ趣があり、母ヶ岳を借景とした庭づくりがなされている。石段を上がっての屋敷の入口には瓦葺きの門がある。その奥の突き当たりに沖縄のように、ヒンプンのような屏風風の塀があり、そこを廻って屋敷内に入ると、主屋が現れ枯山水の庭園が広がる。知覧の庭園は江戸中期に、藩主の参勤交替に随行した知覧領主の島津久峯の家臣らが、京都の文化に接する機会が多く、庭園は京都の庭師に造らせたとも云われている。』
『知覧は南北朝時代以降、薩摩島津家の支配下の佐多氏の領地であったが、文禄4年(1595)から種子島氏の所領になり、佐多氏が旧領知覧に復帰したのは、慶長15年(1610)佐多忠充のときである。しかしそれは、知覧の一部を給地高として与えれてたにすぎなかった。佐多氏が知覧の領主になったのは延宝5年(1677)のことであった。久達は薩摩島津藩主 島津光久・綱貴・吉貴の3代の藩主に仕え、その功績により、正徳元年(1711)島津姓を称することが許された。知覧の麓は第18代島津久峯(藩主継豊の三男)が、延享2年(1745)養父久豪の後を継ぎ、御仮屋(知覧領主の居宅)を中心に形成し、防備を兼ねた城塁型の武家屋敷の区画と、道路割りをしたものである。薩摩島津藩では鹿児島の鶴丸城しか持てなかったので、領内に113ヶ所の外城を持った。外城は城ではなく、人をもって城とする軍事上の拠点であった。その外城の防備を郷士にあたらせ、その郷士の居住するところを麓と云った。郷士は平常は農業を営み、非常時に備えて武技を磨くと云う生活であった。知覧麓武家屋敷群は第18代島津久峯の1760年ごろに形成されたもので、石垣の上には大刈り込みの生垣が続き、麓全体が母ヶ岳を借景とし、江戸時代そのままの姿を今に残している。通りは、各所で折れ曲がったり、T字型になっていて戦術的な仕掛けがなされている。街路両側には側溝がなく、直立した石垣で整えられ、その上に美しく剪定された生垣が武家屋敷を囲っていて、知覧麓の町並みはこの石垣と生垣とに特色がある。枯山水を中心とした庭園は、現在七庭園が公開されていて、それぞれ趣があり、母ヶ岳を借景とした庭づくりがなされている。石段を上がっての屋敷の入口には瓦葺きの門がある。その奥の突き当たりに沖縄のように、ヒンプンのような屏風風の塀があり、そこを廻って屋敷内に入ると、主屋が現れ枯山水の庭園が広がる。知覧の庭園は江戸中期に、藩主の参勤交替に随行した知覧領主の島津久峯の家臣らが、京都の文化に接する機会が多く、庭園は京都の庭師に造らせたとも云われている。』
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